木曽の桟・概要: 木曽八景の1つ木曽の桟は古くから木曽路(中山道)の名所として知られていますが、江戸時代に尾張藩が桟を整備する前は大変な難所として知られ、次のような伝説が残されています。
平安時代末期、木曽谷は軍馬として知られる木曽馬の産地でその中でも最も優れた名馬が木曽義仲の愛馬として宛がわれ、度々軍事演習をしていました。厳しい修練に耐えた名馬はやがて、義仲の言葉を理解し、命令通りに行動する事が出来るようになり、驚異的な脚力を身に着けました。ある日、義仲は軍事演習の最中に、この名馬ならば桟(現在の木曽の桟)を一気に飛ぶことが出来ると家臣達に宣言し、名馬に対し、この桟は73間で飛び越える事が出来る、お前の脚力ならば十分飛び越えるのは容易いだろうと耳打ちし、鞭を入れました。名馬は勢い飛び上がり、桟を飛び越すかと思った刹那、2間前で失速し、木曽川の谷底に転落し命を失いました。義仲は名馬が下敷きになった御蔭で一命は取り留めましたが、何故あれほどの脚力があり、命令通りに動ける名馬が失敗しのか不思議でなりませんでした。そこで、実際、桟の距離を測ってみると75間あり、名馬は命令通りに飛んだにも関わらず、その距離を義仲が間違った為の事故だった事が判明しました。義仲は自分の愚かさと名馬に対する自責の念から、近くに名馬の御霊を慰める為一宇を設けて観音像を安置したと伝えられています。これが、現在の沓掛観音堂の由来で、丸山観音、田の上観音、岩出観音と共に木曽4大馬頭観音に数えられ、特に牛馬の仕事に携わる人達の信仰の対象となっています。
寿永3年(1184)、義仲は従兄弟である源頼朝との不仲から、源範頼・義経率いる追討軍(鎌倉軍)を派兵され、宇治川の戦いで敗北、数名の家臣と共に落ち延びようとしましたが、粟津の地で馬が深い田圃に足を取られ、身動き出来なくなったところで敵に首を取られてしまいました。この話を聞いた人達は皆、あの名馬がいれば戦に負ける事はなかったと口にしたそうです。
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