洗馬宿(塩尻市)概要: 洗馬宿は慶長19年(16414)に中山道のルートが変更された際に新たに整備された宿場町で中山道69次中31番目に位置しています(元々は下諏訪宿→小野宿→木曽桜沢)。天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場は本陣1軒(百瀬家※江戸中期以前は三沢家)、脇本陣1軒(志村家)、旅籠29軒が設置され五町五十間の長さがありました。交通の要衝で塩尻方面の端には中山道と善光寺西街道の追分があり、安政4年(1857)に建立された常夜塔や道標「右 中山道 左 北国往還 善光寺道」(現在は移設)などが設けられていました。
江戸時代後期になると善光寺詣での参拝客で宿場が賑い、大きな旅籠や荷物貫目改所(中山道では洗馬・板橋・追分の3宿場にしか設けられなかった)が設けられ戸数も100軒余りから幕末には150軒と大幅に増加しています。正保4年(1647)、慶安元年(1648)、天明5年(1785)、天保8年(1837)に大火にあい昭和7年(1932)の火災で多くの家屋を焼失した為、現在は古い町屋はほとんど見られません。
特に洗馬宿本陣の百瀬家と脇本陣の志村家は広大の敷地を有し庭園の素晴らしさから「善光寺道名所図会」の中で「中山道に稀な名園」と紹介されていましたが鉄道の開通と火災によってその姿が失われました。又、洗馬宿には細川幽斎が詠った「肱懸けて しばし憩える松風に たもと涼しく通う河風」の「肱懸松」や木曽義仲と今井兼平が落ち合った場所と伝わる「邂逅の清水」(この清水で義仲が愛馬を洗った事から地名である洗馬の由来になったとも)、篤く念じれば念願成就する伝わる「言成地蔵尊堂」などがあり落ち着いた町並みが続いています。
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