【 概 要 】−仁科盛国は鎌倉時代末期頃から南北朝時初期頃に仁科盛忠の長男として生まれとされます。当地域には古代豪族安曇氏の一族、又は平姓の仁科氏が長く支配していましたが、鎌倉幕府が倒れると室町幕府から信濃国守護職に認められた小笠原長基が仁科右馬助を攻め、仁科家は滅亡しています。その後、仁科城の城主原信濃守源義隆の娘婿となった関盛忠(関日向守盛長の子供)が文和2年(1353)に仁科姓を称するようになっています。盛忠は比較的早く隠居し盛国に家督を譲ったようです。
盛国は別地から来た新たな領主が認められる為に尽力したようで、永和2年(1376)には仁科神明宮(長野県大町市)の式年造替と遷宮を行い、永和3年(1377)に若一王子神社(長野県大町市)の本殿を再建しています。仁科神明宮は安曇一族、又は平姓仁科家の崇敬社で平安時代後期に創建して以来20年毎に式年造営が行われており盛国はそれに従って完遂する事で新たな仁科家が領主として認められようとしたと思われます。式年造営には多額な費用や建材の調達、職人の確保が必要だった事から盛国はそれらを行える領内経営を行っていた事が窺えます。若一王子神社も同様に前仁科家が創建した歴代の崇敬社でこれらを庇護する事で領民の人心を掌握したと思われます。
|