等々力家住宅(安曇野市)概要: 等々力家は古くから当地域の有力者で、古くは斉明天皇2年(656)に大海人皇子(後の天武天皇)の命で当地に派遣された子供(後の仁科家)の補佐をした田村守宮を祖とする旧家です。又、一説には坂上田村麻呂が朝廷に歯向かう八面大王の討伐で当地に訪れた際、随行した等々力玄蕃允が討伐後も留まったとも云われています。中世以降は領主である仁科家の家臣として周辺武士達を統率する立場でしたが、戦国時代に入ると武田家の侵攻により仁科家は武田家から養子(※1)をもらい、武田家が滅ぶと没落します。
等々力家はその後に領主となった小笠原氏に従い大坂の陣などにも出陣しましたが、その後は帰農し大庄屋として地域の運営などに携わるようになりました。江戸時代に入ると松本藩の本陣に定められ藩主が当地に巡視や狩で訪れた際は休息所として利用されました。現在でも屋敷内には藩主が利用した座敷や長屋門(※2)、古文書、庭園(※3)などが残され安曇野市指定文化財に指定されています。又、近くには等々力家が開基となって創建した東光寺(宗派:曹洞宗・本尊:馬頭観世音菩薩・信州川西観音札所第八番札所)が境内を構えています。
補足
(※1)養子−武田信玄の五男、仁科盛信を名乗る。織田信長に最後まで抵抗し高遠城で討死。
(※2)長屋門−江戸時代中期建築、木造平屋建、切妻、桟瓦葺、桁行20間、梁間4間、真壁造り。
(※3)庭園−江戸中期に作庭。安土桃山時代の作風が残されている須弥山式石組の庭園。
長屋門を簡単に説明した動画
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