長野県の日本三大・概要
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長野県には日本三大○○が幾つか存在しますが、今回は日本三大桜名所の1つに数えられている高遠城と日本三大湖城の1つに数えられている高島城、日本三大如来の1つに数えられている長野善光寺を紹介します。
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高遠城概要: 現在の高遠城(伊那市)の原型は天文16年に山本勘助(武田家軍師)と秋山信友(武田家家臣)により縄張りされたものとされ、本丸南側の1段下がった平地は勘助郭の名称が残っています。南、東、西側の3方には三峰川と藤沢川が流れ、3方が崖地を形成した要害堅固の城として武田方の軍事拠点として機能しました。円形の本丸の外側には囲むように二之丸が配され、さらにL字型の3之丸があり、それぞれ馬出のような虎口で出入りを制限しています。織田軍の信濃侵攻では激戦地の1つでもあり何度も落城にあいましたが、江戸時代に入ると高遠藩が立藩すると藩庁が置かれ近世城郭として改修されます。明治時代以降廃城となり多くの建物が取り壊し、払い下げとなりましたが、現在でも堀や土塁などの形状がよく残り国史跡に指定され名城100選にも選定されています。又、高遠城の跡は公園として整備され特に桜の植樹に力を入れ、弘前城(青森県弘前市)、吉野山(奈良県)と共に日本三大桜名所の1つに数えられています。
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高遠城・写真
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高島城概要: 高島城(諏訪市)は諏訪湖に浮かぶ小島を利用した水城で当初は諏訪湖の湖面が本丸石垣にまで達し、水面に浮かぶ名城として葛飾北斎の富嶽百景などに描かれていた程でした。城下町からは衣之渡郭、三之丸、二之丸、本丸と程一直線に配置されていましたが、江戸時代後期になると諏訪湖周辺の新田開発が進み高島城と諏訪湖は次第に離れていきました。諏訪湖に流れる小川を堀として利用していた為、新田開発後も諏訪湖側に堀を設け無い独特な構成で、当時は独立していた郭も微妙な感じになっています。明治維新後も三層の天守閣は現存していましたが、その後、破却され現在はコンクリート造で再建されています。宍道湖の松江城と琵琶湖の膳所城と共に日本三大湖城の1つとされます。
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高島城・写真
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長野善光寺概要: 如来とは当初、釈迦そのものを指していましたが、時代が下がると数多く如来が発生し中でも善光寺阿弥陀如来(長野県)、平等寺薬師如来 (京都府)、清涼寺釈迦如来(京都府)が日本三如来と呼ばれるようになりました。善光寺の本尊は「三国伝来一光三尊阿弥陀如来」と呼ばれ天竺の釈迦の姿を実際に見て模して彫り込んだものと伝えられ、全国に広がったは善光寺式阿弥陀三尊像の元になったとされます。推古10年(602)、本多善光と名乗る信州の住民が都で仕事をして帰郷する途中、難波で阿弥陀如来の化身が夢枕に立ち、仏像の場所と、それを地元に持ち帰り祀るように告げたそうです。そこで祀った場所が元善光寺(長野県飯田市)で、その後、現在地に遷され広く信仰されるようになり、特に戦国時代は本尊を巡り、上杉謙信や武田信玄、織田家、徳川家康、豊臣秀吉と所有者が代わり、40年後ようやく信州に戻る事が出来たそうです。本尊は秘仏の為、数百年誰の目にも触れる事が出来ず、前仏である三尊像でさえ7年毎しか開帳されない貴重な仏像です。
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長野善光寺・写真
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