柏原宿(北国街道)概要: 柏原宿は北国街道の宿場町で、案内板によると「 柏原宿は鳥居川の南にある古間宿と合宿で、月の前半を柏原、後半を古間宿で分担して、人馬の輸送を行いました。南北の土手の内側に52軒分の伝馬屋敷と、街道の中央に用水と松並木がつくられました。
1819(文政2)年ころは、旅籠屋10軒・茶屋4軒・酒屋2軒などがあり、一茶の家は宿場のやや南よりにあり、本陣の観国・桂国は俳句をたしなみ、一茶と親しく交流しました。1827(文政10)年閏6月、大火のため一茶家をふくむ92軒が焼失しました。一茶は仮住まいの土蔵に半年ほどくらし、そこでなくなりました。宿場はその後復興し、江戸末期には、再び加賀金沢藩などの参勤交代の宿所になりました。 」とあります。
又、柏原宿は戸隠神社奥社・中社に続く戸隠山道との分岐点だった為、善光寺参りだけでなく戸隠神社への参拝客も利用していたと思われます。
柏原宿の本陣は代々中村六左衛門家が世襲し、広大な敷地内には表門や御殿、式台付きの玄関、上段の間などが設けられ、特に御殿の天上は格天井で加賀藩前田家の家紋である梅鉢紋が施されていました。
柏原宿の鎮守である諏訪神社の創建は不詳ですが寛永11年(1634)には存在していたことから少なくともそれ以前から鎮座していたと思われます。小林一茶もよく参拝に訪れていたそうで、境内には一茶の句碑「松陰に 寝てくふ六十よ 州かな」が建立されています。
この句は文化9年(1812)の「七番日記」で記載されていたもので、文政12年(1829)、一茶3回忌に弟である弥兵衛と門人達により建立され明治10年(1877)に当初あった柏原宿入口から現在地に移されました。現在古い町屋などが失われ、宿場町の風情は失われつつありますが、小林一茶の生家などが残されています。
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